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茂木健一郎著「脳の中の人生[2006-03-21-1]より、
なるほどと思った話。

いきなり京都へ行って「哲学の道」を歩いても、
有意義な思索にふけることができるかというと、
そうとも言えないようです。
西田幾多郎は、毎日のように「哲学の道」を歩いていたからこそ、
さまざまな思索にふけることができたのではないか。京都のあの風光明媚
な道だけが、哲学の道なのではない。毎日の生活の中で歩いている
ありふれた道こそが、私たち一人ひとりにとっての“哲学の道”なのである。
(p.53)
確かに納得できます。
ともかく、毎朝、駅まで歩いていく道は私にとっての「哲学の道」という
ことで。

どうやら、ひらめくためには、脳がある程度「退屈」しないとダメなよう
である。目新しい刺激が次から次へと示されると、脳はそれを処理するだ
けで手いっぱいになってしまう。
慣れた道じゃないと、まわりのものに気が散ったり、迷わないかと心配し
たり。そういう道は思索にふけるよりも、新しいものを発見してウキウキ
する用途(どんな用途だ…)に良いですね。

駅までの道の話の補足ですが、毎朝同じだと「退屈」なので、刺激を得る
ため毎回違う道を歩いたりしていました。しかし、今となってはさすがに
どの道も「哲学の道」と化しているわけで。
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