どんな使い方をするにせよ、ライフログの時代の夜明けは近い。ライフログを徹底的に取り入れ、電子記憶を最大活用しようとありったけの力を注ぐのもより、自分の行動を最低限記録するにとどめるのもよし。それとも、ライフログの概念自体を全面的に否定して、生きた証しをなるべくデジタル化して残さないようにするのもよし。インターネットはもとより、コンピューターと聞くだけで眉をひそめる人は昔からいたし、そんな輩はいつの世にも存在する。今でさえも携帯電話を敬遠する人がいる。それはそれで結構。そういったものを早くから取り入れた人であれ、遅れて取り入れた人であれ、何が何でも断固お断りという人であれ、社会全体が確実にライフログ技術への道をたどりつつある。そして、僕らを取り巻く世界を変えていこうとしている。このような変化の力にはあらがえそうもない。
(p.20)
自分の日々の行いを他人に閲覧してもらうためにウェブ上にアップする人のことを、ライフブロガーと言う。僕はライフロガーであって、ライフブロガーではない。どういうことかと言うと、僕は日々の行いを電子的に記録している。保守的に聞こえるかもしれないが、僕からしたら、度が過ぎた公開は愚かに思えて仕方がない。[...]僕がライフログを記録しているのは、自分のためだから、人には見せない。
(p.41)
今から50年経っても、データを読み取れるのだろうか。ジム・メゲルと僕が1997年にウェブ上で公開した音声ファイルを、五年ぶりに再生しようとしたらできなかった。マイクロソフトでこの手の問題を担当している部署の説明によれば、そのフォーマットのライセンスが切れていて、おまけに、そのフォーマットの権利を握っていた会社が倒産してしまったそうだ。この場合データを再生できるようにするのは違法だ。その会社が復活して、もう一度ライセンスしてくれるなんてことは、現実的にあり得ない。このフォーマットはおだぶつだ。
(p.238)