西田幾多郎は、毎日のように「哲学の道」を歩いていたからこそ、確かに納得できます。
さまざまな思索にふけることができたのではないか。京都のあの風光明媚
な道だけが、哲学の道なのではない。毎日の生活の中で歩いている
ありふれた道こそが、私たち一人ひとりにとっての“哲学の道”なのである。
(p.53)
どうやら、ひらめくためには、脳がある程度「退屈」しないとダメなよう慣れた道じゃないと、まわりのものに気が散ったり、迷わないかと心配し
である。目新しい刺激が次から次へと示されると、脳はそれを処理するだ
けで手いっぱいになってしまう。