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米原万里講演集『米原万里の「愛の法則」』、Kidnleで読みました。

講演って、バンドでいうとライブみたいなもんじゃないですか。そうなると自分の持っているとっておきの話(曲)で勝負したいわけです。セットリストはベスト盤に近くなるのと同じで、講演の内容もすべらないベストな話の連続になるのです。

ということで、かなり面白かったです。もちろん、別の本で読んだ話もあったりはしますが、そんなことはどうでもいいのです。ライブです、ベスト盤です!

4本の講演が書き起こされています。そのうち2本は高校生向け。なので、話は分かりやすいです(著者の本は常に分かりやすいですけど)。私は著者が通訳者として「言葉」について語るのが好きなのですが、そういう講演もあり。

米原万里の「愛の法則」 (集英社新書) [Kindle版]

稀有の語り手でもあった米原万里、最初で最後の爆笑講演集。世の中に男と女は半々。相手はたくさんいるはずなのに、なぜ「この人」でなくてはダメなのか--〈愛の法則〉では、生物学、遺伝学をふまえ、「女が本流、男はサンプル」という衝撃の学説!?を縦横無尽に分析・考察する。また〈国際化とグローバリゼーション〉では、この二つの言葉はけっして同義語ではなく、後者は強国の基準を押しつける、むしろ対義語である実態を鋭く指摘する。4つの講演は、「人はコミュニケーションを求めてやまない生き物である」という信念に貫かれている。

以下、読書メモ:

あらゆる人間が社会的にも法的にも経済的にも平等である、そういう理想的な社会が訪れる日が万が一あったとしても、この性愛における不平等は残るのではないか?
「フル」ジョワジーと「フラレ」タリアートのあいだの埋めるに埋められない深い溝
フラレタリアート側の人間としては、これはそうですよねえ、としか言えない。
「性愛における不平等」があるかぎり、他の不平等もなくすことはできないのかも。

元のヘブライ語では単に「結婚しない女」という意味だったのを、ラテン語に訳すときに「処女」って訳しちゃったのね。
世界一有名な女性の話。
へえ、と思うも、定説としてどうなんだろう。

日本語だと、コンセプトという語の意味がわからなくても、音だけ移して、平気でみんな使っていたりしますよね。「どういう意味?」と聞くと、わからなかったりします。でも、中国語の場合、意味がわからないと中国語にならないわけです。日本語は意味がわからなくても、音だけ移して日本語らしく聞こえるという、カタカナ語はそういう役割を果たしています。
例えば、日本語に「ラブホテル」というのがありますね。日本語はそのままラブホテルとカタカナ語で言ってしまうでしょう? だけど、香港に行くと、ちゃんとこれが中国語になっているんです。「情人旅館」となっています(笑)。ラブが厳密に訳されています。つまり中国語は、ちゃんと意味を訳さないと、外国の概念が入り込めないようになっているわけです。
日本語に外来語が入りやすい理由について。

ほんとうはアラブ語とヘブライ語はほとんど同じなんです。同じ言葉の別な方言と言ってもいいくらいによく似ています。大体東京言葉と関西弁ぐらいの違いしかない、そのぐらい近いのです。
そうなのか。
違う文字を使っているのはアイデンティティ確立のためか。

私たちが外国語を学ぶと必ずかかる病気というのがあります。これは明治以降、進んだヨーロッパの文化を学ぼうと、外国へ出かけていった日本の知識人がみんなかかった病気です。
 一つは「学んだ外国語、外国文化を絶対化するという病気」、もう一つは逆に「日本のほうがすぐれている、日本はすごいとか、自国と自国文化を絶対化する病気」。
かならずどちらかにかかるんだって!

五年くらい前に、ニューヨークのハーレムでこんな事件が起きました。黒人の浮浪者の前に、やはりいきなり神様が現れて、三つの願いをかなえてやると言われたんです。彼は迷うことなく、次のように叫んだそうです。「白くなりたい」「女たちの話題の的になりたい」「いつも女の股ぐらにいたい」。すると、たちまち男の姿は消え去り、路上にはタンポンが一個転がっていたというんです。
ううむ。

私が通っていたソヴィエト学校では、国語の授業と宿題で実作品を大量に読ませるのです。かなり十九世紀の古典偏重でしたけれども。それから学校の図書館に本を返すときに、司書の先生が生徒に読んだ本の要約を、毎回毎回言わせるんです。感想は聞かれません。つまり、その本を読んだことがない人に、どんな内容かわかるように伝えるということを、毎回やらされるのです。
ソヴィエト学校の国語の時間は、一段落を声を出して読みますね。そして読み終わったら「はい、今読んだ内容を自分の言葉で要約しなさい」と言われるのです。声に出してきれいに読む、純粋に音だけ、文字だけを追って読むことは、ある意味では内容を把握していなくてもできるんです。
これはきつそう。
でもいいトレーニングになるだろうな。
今からでも遅く無いかも。

その日本について無知であることを克服するために何をしたかと言うと、やはり本を読みました。日本の文学作品を読もうと思いました。それはなぜかと言うと、文学こそがその民族の精神の軌跡、精神の歩みを記したもので、その精神のエキスである、とプラハの学校で先生方からいつもいつも教えられていたから、私もそうだという思いがあったのです。
文学はその民族の精神の記録。
小説もしっかり読まないとなあ。

目次:
本書に寄せて--池田清彦
第一章 愛の法則
第二章 国際化とグローバリゼーションのあいだ
第三章 理解と誤解のあいだ--通訳の限界と可能性
第四章 通訳と翻訳の違い

これまでに読んだ米原万里本

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